視覚とひかり

視力が悪いことに慣れきっているが、たまに自分の目の見えなさに驚く。



友人たちと銭湯に行った。眼鏡を外して浴場に入ると、たくさんの裸の女たちを、知っている人か知らない人か見分けられず、誰にも話しかけられなくなり立ち往生してしまった。
優しい友人たちは、逐一近くに来て声を出し、存在と位置を示してくれた(その節は本当にありがとう)。


私が見ているのは、眼鏡のレンズによって修正された世界だ。もしかしたらほんとうのものではないかもしれない。けれど、それ以外に私が世界を見る手段が無い。こんな小さなまるいレンズ一枚に支配されている。見えるもの、受け取る印象、考え方。


小学5年生から眼鏡をかけた。暗い部屋で本ばかり読んでいるから目が悪くなったのよと親に言われまくったが、原因がそのひとつだけにしてはあまりにも、急な崖を滑り落ちるような視力の下がりかただった。


おとなになると、視力検査は矯正視力(眼鏡やコンタクトを着けた状態の数値)のみを測ることが多い。いま、私が裸眼視力で測れば、測定最小値である0.01に限りなく近い数値を叩き出すと思う。検査表のいちばん上の、どちゃくそでかいCの切れ目が、きっと見えない。

ものの輪郭も色も質感も量感もたたずまいも、すべてが曖昧になる。「そこに何かがある」くらいしか認識できない。
こんなにものが見えていないくせに、ふつうの社会人みたいな顔をして生活していることにびっくりする。



災害大国ニッポンのこと、寝ているあいだになにが起きるかわからない。枕元に眼鏡を放り投げて眠り、もしも夜中に地震その他のアクシデントが起きて眼鏡を紛失または破損した場合、その後の行動すべてに多大な支障が生じる。家から一歩出たら、どこに向かって逃げればいいのかなにも見えない。足元の障害物に気づかず怪我をしてしまうかもしれない。知った人間が近くにいてもわからず救助の手を離してしまうかもしれない。
ちゃちなレンズひとつをうしなうことが、すべての機会を奪う致命傷になりうる。こんな薄氷の上を歩いているなんて。正常な人間に見せかけて。それなのに、絵を描きながら生きていこうとしているなんて。


それでも。この不完全な眼で世界を見ている。
時々、異常に視界の彩度が上がり、ちかちかとまたたくようなひかりの中に放り投げられることがある。精神的な変化があったときや、出来事の区切りを迎えたときにそういう見え方になる。たぶんみんなもそういうことってあると思うけれども。

私の脆弱な眼が、この愛しい瞬間を逃すまいと必死でひかりをのみこもうとしている。

19世紀、印象派とよばれた画家たちは、このちかちかの一瞬を画面に閉じ込めようとした。そこにほんとうにひかりが満ちていたかもしれないし、もしかしたらまったく光ってなどはなく、個人的な心持ちが見せた幻想の輝きだったかもしれない。画家は目で見て、それを手でえがく。彼がほんとうはどのように見ていたか、誰も知らない。私が見ているものは、私にしか見えない。

私はこの眼と生きていく。適宜修正された世界と、その奥にひそむ鮮やかさを睨んで。