洗濯物が取り込めない

もう4日目だ。毎昼毎夜外気に晒されまくって冷え切った私の服たちがベランダにいる。



さすがに着るものがなくなってくるので、朝、震えながら必要な一枚二枚だけ回収する。この震えが世界一不毛なものだと思いながら。



洗濯機を回すことまではギリギリ出来るのだ。洗ってない服が山盛りになっていくさまは視覚的にインパクトがあるためだ。
干すことは、少ししんどい。ベランダは寒いし、靴下やらパンツやら細々したものが、干しても干しても無限にある。が、干さないと、洗濯機の中で蒸れて臭っていく想像がとまらない。時限爆弾のカッチカッチという音が聞こえる気がする。追い立てられ、他ごとが手につかず、洗濯物の奴隷となって苦行の波に身を投げる。

そうして干し終わったら、すべてから解放された気分だ。私は一大プロジェクトを成したのだ。大量の布たちが風にはためいている。柔軟剤の香りがする。生活を清潔に保っている。
圧倒的全能感をもって、窓を閉める。



ここまでしか、頑張れない。
朝干したなら夕方、夜干したなら翌日、とっくに乾き切った服たちを、ハンガーからはずして部屋に持ち込み、適宜のかたちに畳んで所定の場所へ収納するというタスクが、どうしてもできない。できるとしたら相当酔っ払って身体のコントロールを失っている時か、よっぽどすべてが上手くいって機嫌がいい時だ。たいていはそんな状態ではないので、いつまでたってもダラダラ垂れ下がっている、服が。
やれば5分で終わるのに、やるのに一週間かかる。だいたい何事もそう。



先日、自分の、食べ物にたいする感覚(知っている味と限られた食感しか受け付けない)について「これは発達障害の特性に近い」と言語化してみたらだいぶん気持ちがスッキリしたということがあった。
カテゴライズされないことほど、居心地の悪いことはない。上手くやれないモヤモヤは、名前がつくと整理された。
診断の有無は問題ではない。人間はグラデーションだ。
まともな社会人の顔をして毎日外の世界に出ている私が、洗濯物を取り込むことが全くできなくても、それは「有り得る」「有っていい」ことなのだ。


なので、いまも洗濯物は取り込めていない。明日になったら突然動けて取り込めるかもしれない。明日ではなく、10分後かもしれないし、3日後かもしれない。
ままならない衝動性と共存している。もう充分な大人なので、ままならなさを自分でなんとかしている。していくしかない。人に迷惑をかけることはなるべく避けたいので気をつけているが、ままなっていないかもしれない。


もうすぐ2024年がきて、そしたら38歳になる。だいたい45歳くらいまでは自由に気のむくままに生活しようと思っているので、もう少し色々やってみる。
自分のことを自分でやっているだけだから、たぶん大丈夫。