絶対の記憶

世界は毎日前に進んでいて、モノやコトはどんどん新しく生みだされていくし、過去に見たり読んだりしたものの記憶はみるみる上書きされてしまう。ぜんぶを覚えておくなんて不可能だ。


それでもときどきごくたまに、ひとつの記憶が強烈に居座り、根を張る。

金原ひとみの小説「AMEBIC」(アミービック)を初めて読んだのは20代前半のこと。




専門学校を出て新卒で就職したデザイン会社は、身体も心もぐちゃぐちゃになって1年半で辞めた。
すぐに適当なところでアルバイトを始め、フリーター生活が始まった。


毎月、給料日に大型書店に行き、手当たり次第に本を買うという行為をはじめたのがこのころだ。文芸書や文庫の棚を隅から隅まで見て、タイトルや装丁が気になればとにかく手にとった。冒頭と中間をざっと立ち読みして、ばちんとピントが合ったら迷わず買った。文字列の響きや文のリズムや書かれていることがら、それらに自分が惹かれると思う本を、探して見つけて、たくさん手に入れた。
それまでもなんとなく読書は好きだったが、もっと主体的に、自分のお金で自分で選んで本を買って、それを読むことは、とても楽しかった。自分を構成する細胞が増えていく感じがした。読んだもので身体がつくられていく感じがした。


江國香織森博嗣村上春樹小川洋子川上未映子本谷有希子、等々。このころに出会った作家たちは、心のVIPルームに特別待遇で鎮座している。

そして、金原ひとみの小説世界は、ひりひりしていた20代の記憶ごとそのまま、身体に刻みこまれている。書かれていることがらやモチーフを、生活のなかで鮮明に思い起こし、意識する。本によって自分の一部がつくられていると感じる。



「AMEBIC」の主人公(名前は書かれない)は、
小説家で
ひとつ仕事を終えると自分のことを天才だと思うことにしていて
家で仕事をしていて
打ち合わせなどがない限り外には出なくて
でもたまにデパートで豪快に買い物をして
食事と、食事をする他人に極端な嫌悪感を持っていて
飲み物とサプリメントと時々漬け物をかじって生きていて
美しく細い身体を持っていて
婚約者がいる相手と恋愛をしていて
恋人の婚約者の職業がパティシエだからあるとき突然お菓子作りを始めて
何を作っても完璧にレシピ通りに仕上げることができて
食べないからそれらをすべて捨てていて

そして、ときどき、精神的に混濁し、錯乱状態で文章を書き残す。

本書は、主人公の身の回りの描写やできごとと、主人公が書いたという錯乱した文章「錯文」が交互にたちあらわれて構成される。

「錯文」は、無意識の状態で書かれ、パソコンに文書ファイルとして保存されている。
口語体で脳内のつぶやきを垂れ流すような混沌としたものもあり、
ある一定のテーマで帰結のある構成をもったものもある。
後者の文章には「アミービック」というファイル名がつけられていた。


また、印象に残るキーワードやモチーフとして、
床暖房
野菜ジュース
ソリティア
六本木ヒルズ
ジントニック
アブサン
くしゃみ
煙草
ケーキ
膨満感
分裂
ゲル
スパーク
アミーバ
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私の家に床暖房は無いが、外で酒を飲むときはジントニックを探す。
東京は遠いので六本木ヒルズには行けないが、煙草は吸う。
ケーキはあまり食べないが、腹部の膨満感を慢性的に感じている。
私の皮膚と触覚と脳はときどき分裂し、目のなかで細胞はスパークする。


「AMEBIC」の世界が、私の生活を経由してさらに広がる。解像度が上がる。
読書の快感とはこういうことだと思う。



初めて読んだ時から15年くらい経った。ずっと、脳のいちばん手前のところにいる記憶が、この本のことである。金原氏はこれ以降もたくさんの作品を発表しているし、私もそれらを読んだけれども、たったひとつこの本のことだけが、いつも最前列を譲らない。鮮烈なイメージは、まるで昨日生まれたみたいに容易に爆発する。


読書が好きで、この世にある膨大な書物をできるだけ多く読みたいと思っている。でも、「AMEBIC」のことだけは心のべつな場所に閉じ込めておきたい。世間的に評価されている作品かどうかはどうでもいい。わたしのわたしだけの核がふるえた、そのことそのものを大切に思いたい。そんなふうに思える作品に、この人生で出会えたことが幸福だ。まいにち雑多な物事に殺されてしまいそうでも、わたしにはこの本があるから、生をやろうと思える。



他のひとが、そういうもの、たいせつな作品、をもっている話を知りたくて、インターネットの海を泳いでいます。日常で、なかなかそういう会話はしないと思うから、ひっそりオンラインに書かれたものを読み歩くことが楽しいです。私のこんなとりとめない文章も、おなじようなひとたちに届いたら。嬉しい。

 

視覚とひかり

視力が悪いことに慣れきっているが、たまに自分の目の見えなさに驚く。



友人たちと銭湯に行った。眼鏡を外して浴場に入ると、たくさんの裸の女たちを、知っている人か知らない人か見分けられず、誰にも話しかけられなくなり立ち往生してしまった。
優しい友人たちは、逐一近くに来て声を出し、存在と位置を示してくれた(その節は本当にありがとう)。


私が見ているのは、眼鏡のレンズによって修正された世界だ。もしかしたらほんとうのものではないかもしれない。けれど、それ以外に私が世界を見る手段が無い。こんな小さなまるいレンズ一枚に支配されている。見えるもの、受け取る印象、考え方。


小学5年生から眼鏡をかけた。暗い部屋で本ばかり読んでいるから目が悪くなったのよと親に言われまくったが、原因がそのひとつだけにしてはあまりにも、急な崖を滑り落ちるような視力の下がりかただった。


おとなになると、視力検査は矯正視力(眼鏡やコンタクトを着けた状態の数値)のみを測ることが多い。いま、私が裸眼視力で測れば、測定最小値である0.01に限りなく近い数値を叩き出すと思う。検査表のいちばん上の、どちゃくそでかいCの切れ目が、きっと見えない。

ものの輪郭も色も質感も量感もたたずまいも、すべてが曖昧になる。「そこに何かがある」くらいしか認識できない。
こんなにものが見えていないくせに、ふつうの社会人みたいな顔をして生活していることにびっくりする。



災害大国ニッポンのこと、寝ているあいだになにが起きるかわからない。枕元に眼鏡を放り投げて眠り、もしも夜中に地震その他のアクシデントが起きて眼鏡を紛失または破損した場合、その後の行動すべてに多大な支障が生じる。家から一歩出たら、どこに向かって逃げればいいのかなにも見えない。足元の障害物に気づかず怪我をしてしまうかもしれない。知った人間が近くにいてもわからず救助の手を離してしまうかもしれない。
ちゃちなレンズひとつをうしなうことが、すべての機会を奪う致命傷になりうる。こんな薄氷の上を歩いているなんて。正常な人間に見せかけて。それなのに、絵を描きながら生きていこうとしているなんて。


それでも。この不完全な眼で世界を見ている。
時々、異常に視界の彩度が上がり、ちかちかとまたたくようなひかりの中に放り投げられることがある。精神的な変化があったときや、出来事の区切りを迎えたときにそういう見え方になる。たぶんみんなもそういうことってあると思うけれども。

私の脆弱な眼が、この愛しい瞬間を逃すまいと必死でひかりをのみこもうとしている。

19世紀、印象派とよばれた画家たちは、このちかちかの一瞬を画面に閉じ込めようとした。そこにほんとうにひかりが満ちていたかもしれないし、もしかしたらまったく光ってなどはなく、個人的な心持ちが見せた幻想の輝きだったかもしれない。画家は目で見て、それを手でえがく。彼がほんとうはどのように見ていたか、誰も知らない。私が見ているものは、私にしか見えない。

私はこの眼と生きていく。適宜修正された世界と、その奥にひそむ鮮やかさを睨んで。




息をする、そのあと

息してるだけでえらい。



種々様々のつらさを、流し乗り切りやり過ごすためにこのような言い聞かせを自分や他人に向けておこなうことがあるが、それはそれとして、息してるだけの生活はやっぱりしんどいのである。

生活は、選択の集合体だ。何を食べ、何を読み、何を聴き、着、見、観、視。
仕事がつらいなら別に仕事をしなくてもよい。家事が苦手ならしなくても死なない。しかし、「何もしない」ということは存外に難しい。予定のない休日、縦になることができず15時間も20時間もベッドに横たわって目をとじたり開けたりしていた。この間、体は休息しているのに精神が荒れに荒れていた。こんなことでいいのか、時間を喰らうだけの有機体として地球に場所をとっているのは間違いではないのか、もう死んだほうがいいのでは……ゴホン。

何もしないと、しんどい。最初は楽でも、ずっとはしんどい。

息をする以外のことを、仕方なく選んで、おこなう。生活を、やる。


なにを、やったらいいんだ?



学業や労働等を除いた、「生活」の部分において「やるべきこと」は、ゼロである。
すべて、自分で選ぶことができる。

困った。なにをやったらいいんだ?
食べること。食事は快感だ。食物を口に入れているとき、幸福を感じる。自分が美味いと思うものを思うままに食べるのは楽しい。偏食で少食なのであまりたくさんのものは食べられないが、気ままな一人暮らしを武器に、好きなものを作ったり買ったりして、誰にも咎められず自由に食べている。
読むこと。読書が好きだ。主に小説。SFミステリ純文学なんでも雑食に読む。言葉からイメージを広げてフィクションの世界にのめりこむことは、なによりも私の心を癒す。物語の中には、知っているような人がいて、全然わからない人がいて、そしてまるで自分のような人もいる。拵えられた舞台で、おのおのの考えをもって、起こる出来事のなかで、息をして存在している。読むことは、そのさまを追体験する行為だ。自分の人生には発生しない(していない)出来事を、活字を追うことによって体験する。(これはもちろん漫画でも映画でも可能だが、たまたま私に合っているのが小説であるというだけ)
買うこと。まちに暮らしていると、歩いているだけで素敵なモノが目に付く。「あの服を着ている自分」「あのアイテムを持っている自分」を想像し、そうなりたいと思ったら買う。膨大に売られているモノの中で、不思議とピントが合う時。身の回りを、気に入るもので固めていく時。うきうきする。自分を愛せる気がする。


…総じて、「消費」行動である。
誰かがつくったものを、お金と引き換えに受け取る行為。
どうかすれば、これだけで人生の時間の大半を費やすことができる。ひと昔まえにくらべて、世の中の商品やコンテンツは格段に増えたし、アクセスのしやすさも抜群に良くなった。
きっと、生きることと消費することは限りなく同義で。


そうなんだけれど。
なにかどこか、埋められない穴がある。
ただ息をして消費するだけで、寿命を生き抜くことは可能なのに。
ここに穿ちたい。衝動。私の身体から発出するもの。無形有形。
でも、それをしようがしなかろうが、世界は変わらない。ひとびとは、なにもおもわない。

息してるだけでえらい。OK。人生はそれで終了できる。
なのに、私は、にんげんは、ものをつくろうとする。線を引く、色をかさねる、ひかりを演出する、文字をつづる。
ずっとそうやって生きて、生活をやって、あるときに死ぬ。誰にも見つけられなくても、そうでなければ生きられない、虚無のいきものだ。わたしたち。できてるものを費やすだけで、生きていけたらいいのにね。

 

20230122

やることが多い。

頭がいつもパニックだ。

書くことは好きで、いつもノートにこりこりと考え事を書いているが、この闇鍋のような脳の中身が整理されたためしがない。

やるべきことについて、そのゴールや現在の位置がうまくわからず、信じがたいような抜けやミスを頻繁にやらかす。

(他人にわかるかたちで露呈しなかったので何事もなかったかのように息をひそめていたこともある)

 

人に見せる前提で文章を書くとわりかし客観的にものをとらえられるので

こういう場所をつくってみました。

テーマのある長めのテキスト置き場として、雑多にやっていこうと思います。