にっき

37歳なので、ちゃんと日焼け止めを塗ろう。



や、歳を絡める必要はないが、日焼け止めを塗るという行為はわたしにとってかなりハードルが高く、ちょっと曇っていたり雨が降っていたりする朝は「今日はいいよね、塗らなくて」と自らの枷を外し、そして午後、カンカン照りのなかを大後悔とともに歩き通すというひとつの様式美がここにある。なんだこの文章は。

いい歳なのでいろいろなことをちゃんとしようね、と毎日言っている。



近頃といえば、労働および労働、搾取、使役、辟易(韻)などであるが、隙間でとにかく人のいるところに行こうと心がけている。
「普段何やってんだか不明すぎる変な人」がゴロゴロいる場所が好きで、自分がそこになじめるかどうかは別として、変な人の変な話を聴いてへえ〜ほお〜と思うことでささくれだった心がほぐれる実感がある。
人が苦手で、あらゆるコミュニケーションをさぼってきた自分の来歴を思うと、まさかこんなことをするようになるとはね……と、遥かな気持ちになる。
(「遥かな気持ち」というのは川上未映子氏の頻出表現による。いやそこまで頻出でもないかもしれないが。この感じをどう書いたらいいのかと悩んだときにぴったり嵌まりがちな、私ナイズしてしまった言葉である。遥か。ぼんやり遠くを思い返すようなニュアンス。)



あとは、増え続ける酒量、気絶のような長時間睡眠、空腹はあるのに食事が苦痛、体重が減少の一途、などなど。どう見ても身体がだめである。若い頃と同じ動き方をしていてはいけないのよ……


とくに、人と一緒に食べているとすぐに満腹になってしまうのが目下の悩み。
実家に帰ったり、両親と外食をしたりという機会には、あれよあれよと食べ物が目の前に置かれ、全部食べきらなければ心配させてしまうというプレッシャーから、ある一定のところでグッとお腹に圧がきて、それ以降は内臓をなだめるみたいにちみちみ食べることしかできなくなる。(別に食べきらなくても心配はしないと思う。両親も私もいいかげん歳なんだから、昔みたいにもりもり食べられない。なのにいまだに若いつもりで、あれもこれも食べようと張り切って食卓を満載にしがちなだけである。親子ともども己の加齢を自覚できていないだけの話。)
友人と食事のさいも、異常にペースが遅く、待たせてしまうことでよけいに焦り、むりやり詰め込んでその後の体調に不安をきたす始末である。

という感じでおおむね痩せ型なのに、下腹がかなり出ているので、これはこういう暮らしを続けていると突然、病に倒れる予感がヒシヒシとする。
いま倒れて自室の様子を人に見られては困る。怠慢と堕落の権化がここにある。

酒を減らそう。




今年度は、一定のペースで図書館に行ける生活スタイルができたので、知ってはいたけれど読む機会がなかった作家を次々と履修している。
皆川博子西加奈子舞城王太郎西村賢太ベケットなど。
また、タイやベトナムカンボジアなど、あまり光の当たりにくい国々の小説をまとめたシリーズを発見して、嬉々としている。当たり前だけれど、どの国にも小説はある。地理に疎い私はその国が地図上のどこにあるのかもわからないのに、翻訳というフィルターを通して、想像もつかない遠い国の人が考えた物語を、読んでいる。読むことができる。


食べるみたいに、ことばを読めるようになってきた。どろどろに疲れて帰宅したとき、まず本を開くようになった。何ページかするすると読んで気持ちが静かになったら、食事や風呂や家事にとりかかる気力が戻ってくる。
インプットと同じくらい、アウトプットも私を癒す。こんなふうにダラダラベタベタ文章を書き散らしたり、クロッキー帳にぐだぐだ線を引いたり気ままな絵を描いたりすると、頭のなかの澱のようなものが霧散して視界がひらける。



計画も下書きもなしに、ここまで約1550文字、一気呵成。
推敲をしろよ、と私の中の文学オタクが叫ぶが、とにかく更新をすること、いま現在を世界に差し出すこと、を優先とし、公開ボタンをクリックする。このブログはSNSよりも自由で、私の庭だ。

私のSNSmixiから始まったのであるが、あのプラットフォームは大変に居心地がよく、自己プロデュースがしやすかった。
プロフィールに好きな画家や作家やバンド名を連ね、エッセイか散文詩のように長い日記を書いた。入るコミュニティは厳選し、世界観を統一した。今思えばあれは「なりたい自分」をバーチャルで作り上げる行為だった。
TwitterInstagramでは生々しいリアルが漏れ出てしまい、演出のツメが甘くなってしまう。
嗚呼、mixiでもう一度みんなと出会い直したい。いまなら完璧なセルフをお出しできるのに。